Masuk翌日、学校の前に停まった車から降りた瞬間から実花は視線を感じていた。
ため息を押し隠し、昇降口に向かう。
そこでも視線。
とにかく視線。
下駄箱の向こうから、廊下から。
誰も話しかけてくることはない。
だが実花の視界にいる全員がこちらを見ている。
(やっぱり……)
理由は分かっている。
昨日の騒ぎが原因、つまり自分および自分の関係者のせい。
(特に、あれ)
夕方の校門前という、下校する生徒がたくさんいるところ。
そこで、何もなくとも注目を浴びる光也が「実花の婚約者に立候補した」という爆弾発言をした。
女子校であんなことを言われれば話題にならないはずがない。
何度も言うが、あの光也だ。
(藤宮という名前に感謝だわ)
注目を浴びてはいるが、誰も近寄ってくることはない。
実花が最高学年というのもあるが、何よりも『藤宮家の令嬢』だからだ。
【恒一視点】店へ入るたびに店員は一瞬だけ戸惑ったような顔をする。だが、それはほんの一瞬で、すぐに営業用の笑顔へ変わる。違和感はあるものの、気にするほどではない。「いらっしゃいませ、一ノ瀬様」「一ノ瀬様、本日はどのようなご用件でしょうか」名前。他に客がいても自分を優先する接客。恒一は満足だった。(やはり一流は違う)接客の質が違う。恭しいと感じる店員の所作。言葉遣い。立ち居振る舞い。どれも洗練されており、彼らに接客されると自分が一流であると分かる。それが心地いい。.本当は違う。最初は恒一が実花と一緒ではないことに驚き、美鈴を見て『またか』と納得する。実花はいつもの紳士用品の店にいる。そこで待たせるつもりなのだろう。いつものことだ。そのようなことを思いながら店員は恒一と美鈴を見ていた。彼らの買い物は長く、店員たちは待たせている実花を気の毒に思った。だから、恒一たちの要求に優先的に応えていた。早く実花と合流させるために。ただ、それだけだった。◇◇◇「恒一兄さん」宝飾店を出たところで、美鈴が腕を絡めてくる。いつものことなので何も思わない。でも。「次は下着を見たいんだけど」下着。その言葉に、思わず生唾がわく。女性経験がないわけではない。それなのに妙な、焦りのようなものを感じる。「好きに見てくればいい」「一緒に来て?」美鈴は少しだけ唇を尖らせ、甘えるように見上げてくる。一人で行かせるべきだ。父親からも、実花との婚約がまだ決定ではない以上、実花が不快に思う行動を避けるべきだと言われている。(しかし…&h
【恒一視点】休日に買い物というのは悪くない。ただなぜか以前よりも楽しいと感じない。そう思いながら恒一はバッグを見る美鈴を見た。美鈴が足を止める。「恒一兄さん。新作、やっぱり可愛いよね」店頭のガラスケースに入ったバッグを美鈴が指さす。装飾が多めで可愛らしいデザイン。大学四年生の女性には幼いデザインだが、童顔のせいか年齢より幼く見える美鈴には似合うだろう。「似合うんじゃないか」「本当?」疑うように美鈴が恒一を見る。似合うことを証明してみせてと強請る視線。恒一は笑い、店員を呼んでバッグを購入した。美鈴が歓声を上げる。店内にいた他のカップル、女性のほうが羨望の眼差しを恒一に向ける。美鈴に腕を引かれる。「あの人の彼氏ってケチなのかな?」耳元で囁かれる美鈴の言葉に、恒一は女性の連れの男性を見る。目が合う。男性が気まずそうに目をそらした。勝った。自分のほうがやはり上だ。「次は服を見にいくか。欲しいもの、あるんだろう?」「恒一兄さん、最高!」美鈴が嬉しそうに笑う。そんな姿は可愛いと思う。可愛いのだが。(……何か違う)恒一は胸の奥に妙な物足りなさを覚えていた。満足できない。視線を先ほどのカップルに向ける。女性はバッグを指さし、男性に強請っている。男性は無理だと言いながら困っている。(格好悪っ)そんな男に勝てても嬉しくない。恒一は不満だった。だが、不満であることは分かるのに、何が不満かが分からない。新しくできた商業施設。話題性もある。明るく可愛らしい美鈴は男たちの目を引き、連れている自分を妬まし気に見る。恒一
日曜日の朝。いつも通りの時間に起きたものの、実花は顔を顰めた。昨夜はほとんど眠れなかった。目を閉じれば思い出す。外灯に照らされた光也。リボンを解かれたときの感触。 『礼なら、これをもらっておく』「……もう」実花は枕へ顔を埋めた。朝になっても胸の高鳴りは治まらない。.朝食を終え、自室へ戻っても落ち着かなかった。本を開いても頭に入らない。紅茶を飲んでも気持ちは静まらない。窓の外を眺めても、思い出すのは光也の横顔ばかりだった。(このままでは駄目だわ)昨夜は刺激が強すぎた。気分を変えよう。そう思った実花は、外出の準備を始めた。◇◇◇「買い物?」実篤が新聞から顔を上げた。「はい。少し見て回りたいと思いまして」「護衛をつけなさい」即答だった。実花は苦笑する。「大丈夫です。いつもの所なので」藤宮家が昔から利用している百貨店。顔見知りも多い。「西野を呼べばいい」実篤は懇意にしている外商を呼ぶように言う。「いろいろ見て回りたいのです」「しかし」「すぐ帰ってきます」何度か説得すると、実篤は渋々頷いた。「何かあればすぐ連絡するんだぞ」「はい」実篤の心配に心が温かくなり、実花は笑顔で家を出た。.日曜日の百貨店は賑わっていた。ショーウィンドウには季節を先取りした服。化粧品売り場から漂う香り。行き交う人々の楽しそうな声。(こういうのも楽しい)西野が選んでくれるものは、いつも間違いがない。。欲しいものを、実花に似合うものだけを用意してくれる。
「見てみろ」光也に呼ばれ、実花は首を傾げながらモニターへ近づいた。「え? 私が?」「いいから」珍しく光也は面倒さを隠さない顔をしている。実花は不思議に思いながら画面を見る。そして。「お父様!?」思わず声が裏返った。エントランスに映っていたのは実篤だった。腕を組み、明らかに機嫌が悪い。しかも一人ではない。後ろには高峰と、なぜか航までいる。「な、なんで!?」実花は慌てて振り返った。「どうしてここが分かったんですか!?」光也は額を押さえながら、実花のバッグを指さした。「あれだ」「何です?」「君のスマートフォンだ」「スマートフォン……あ」「そうだ。あれの位置情報」実花は固まった。実花のスマートフォンの位置情報は藤宮家のセキュリティシステムに共有されている。「完全に失念していた」光也がため息を吐く。実花は目を瞬いた。いつも何でも覚えていて、何でも見抜いてしまう人が。失念。「東国さんでも忘れたりするのですね」思わず口から零れた。光也が眉を上げる。「当たり前だろう」「そうなのですけれど」実花は少しだけ笑った。なぜだろう。その言葉に安心した。実花から見て、光也は完璧な人だった。何でもできて。何でも知っていて。失敗なんてしない人だと思っていた。でも違う。忘れたりすることもある。(もしかしたら何か失敗だって……)そんな当たり前のことが妙に嬉しかった。◇◇◇数分後。二人はエントランスへ降り
「東国さん!?」驚く実花とは対照的に、光也は平然としたまま脱いだシャツをソファの上に置く。背筋がしなやかに動き、鍛えられた上半身だと分かる。それが露わになって目の前にあり、実花の思考は停止した。「え?」それしか言葉が出ない。光也はそんな実花を見て首を傾げる。「なんだ?」「なんだ、ではありません!」思わず声が大きくなる。「なぜ脱ぐんですか!」「汗をかいたからだ」即答だった。あまりにも当然のように言われて、実花は言葉に詰まる。「汗を、かいた……」「日本の高温多湿は苦手だ」光也は不快そうに髪をかき上げた。確かにスポーツクラブへ行き、そのまま野球観戦をして、今ここまで来ている。汗をかいていても不思議ではない。だが。「だからといって、ここで脱ぐ理由にはなりません!」「なるだろう」光也は心底不思議そうだった。「君は服を着たままシャワーを浴びるのか?」「浴びません! そうじゃなくて、ここで脱ぐのはおかしいって……!」実花は顔を真っ赤にした。男の人というのはこんなにも無防備なのだろうか。いや、違う。問題なのは光也だ。「破廉恥です!」思わず飛び出した言葉に、光也が沈黙した。そして。「……破廉恥?」「そうです!」「久しぶりに聞いたな。いや、読んだか。聞くのは初めてだ」光也が実花を見る。その目にはからかうような光が見える。「君の教育係は、もしかして江戸時代の人間か?」「違います!」「本当に?」「違います!」光也は肩を震わせた。明らかに笑って
「もっとこっちにこい」肩を抱き寄せる腕の力が強くなった。「ひゃっ!?」実花の肩が跳ねる。「東国さん!」「危ない」「……え?」「車道が近い」光也の言葉に、実花は歩道と車道の境を見る。遠い位置にある。危険とは思えない。しかし、光也は平然としていた。「歩きながらあちこちを見るな。危ない」そう言われると反論しづらい。だが距離が近い。近すぎる。エントランスへ向かいながら、実花の頭は混乱していた。男性の家。夜。二人きり。それらが意味することくらい分かる。実花も子供ではない。恋愛小説だって読む。恋愛ドラマだって知っている。何よりも前の生で結婚していて、男性経験もある。(落ち着いて)しかし、落ち着こうとするほど落ち着かない。自分でも何を考えているのか分からなくなる。エレベーターへ向かう途中で、光也がふと実花を見た。「何を考えている」「いえ……」言えるわけがない。それに意地が悪い。「何もしないぞ」やはり。光也は実花が何を考えていたかなど察していた。「え」光也は呆れた顔をしていた。実花は赤くなった。見透かされている。「俺は君を口説くつもりだが、襲うつもりはない」「そ、そうですか」(え?)「口説く!?」「何を驚いている。当たり前だろう」「え?」展開が早いのか。光也の言葉が分かりにくいのか。実花は混乱した。そんな実花に。「だから安心しろ」安心しろと言う。混乱させている
その夜の記憶は、実花の頭の奥底に、まるで消えない染みのように残っている。思い出そうとしなくても勝手に浮かび上がり、忘れようとすればするほど輪郭を濃くしていく。そんな種類の記憶だった。.実花が夫の恒一と暮らしていた藤宮家の別邸は、その夜も例外なく重たく閉ざされていた。外の世界から切り離されたような敷地の中では季節の風すら遠慮がちに通り過ぎ、建物全体が呼吸を止めているように静かだった。ダイニングに入った瞬間、まず実花の目に飛び込んでくるのは過剰なほどの準備をされたテーブル。皺ひとつないクロス。寸分違わぬ位置に並べられた銀のカトラリー。食器の反射すら計算され
どのようなことをお調べに?」実花の質問は彼女たちにとって意外だったが、よく考えれば納得もできた。藤宮家の一人娘として、好物件の男性たちが積極にアプローチしてくれる立場。それに―――全員が視線で会話をする。実花が恒一しか目に入れていなかったことは、この場の全員が知っていることだった。「そうですね。家族構成、学歴、交友関係は常識として、おすすめは趣味ですわね」「趣味を知ることで休日の過ごし方、ご交友関係、あとはお金の使い方なども分かりますわ」「趣味を知るのはお見合いのテッパンですが、テッパンになる理由があるのですわ」「私は嫌いな食べ物をお聞きするようにしています」「過去の恋愛遍歴
ブブブッ。実花のスマートフォンが震える。画面を見た実花はすぐに表情を曇らせた。【一ノ瀬恒一】「誰だ?」光也が尋ねてきたので、「一ノ瀬さんです」と実花は素直に答えた。光也が考えるような顔をしたので実花は首を傾げたが「これは後だ」とその考えを教えてくれることはなかった。「それよりも、さっそく出番だな」光也が楽しそうに笑い、スマートフォンを貸すようにジェスチャーした。「代わりに俺が話す」「だめだ」光也を実篤が止めた。「どうしてです?」「実花の話を疑っているわけではないが、彼がどんな男なのか気になる。実花に対してどういう態度なのか、この耳で聞いてみたい」実篤は真面目な顔
「そもそもだ」光也の声が降ってきたと思ったら、光也の指が顎に触れた。そしてやや力を入れて上を向かされる。見下ろす光也と目が合った。「お互いの立場を比べたら、俺のほうが結婚してくださいと言わなければならない立場だ」「……え?」(お願い……こんな男性が……)実花はぽかんとした。「君は藤宮家の一人娘で、当主である父君も後継者と認めている。一方で俺は東国家の数いる子どもたちの一人で庶子、後継者候補と言われているがあくまでも“候補”だ」光也が口角をあげる。「藤宮の姫君である君に結婚してくれとひざまずくのは悪くないな。誰かに撮影してもらって結婚式で流すか」実篤が呆れたよう







